狂気と歓喜

狂気は、一般的には「ブチキレた状態」をいう。
極限状態に対して理性や思考がフィードバックを起こし、暴発して狂った状態。
もしくは、その状態を起こしている心的状態を指す。
一方で歓喜は、「よろこび」を意味する漢字を並列させ、
意味を重複させる事によって(意図する対象や詳細は異なるかもしれないが)、
とてつもなく嬉しい状態の極限を指す。


我々のように、ロックに心酔した人間は、
しばしばこの両語句を同意義の様に捉えてしまう傾向にある。
殊にロックでもサイケやパンクに端を発する、
衝動的音楽に喚起するロックフリークスは、歓喜の先に狂気があり、
狂気へのエントランスとして歓喜があるような、
危ない思想に取り付かれてしまっている。
(ただ、歓喜の先の狂気と、狂気の先の歓喜では
 内情が正反対になる。この事は想像して頂きたい)


THE WHOは、ライブで必ず機材を破壊した。
それを見たジミヘンは、ギターに火を放ち、
NIRVANAも、ギターとベースでドラムを殴り倒した。
江戸アケミは、ステージ上で生きた鶏に噛み千切り、
田口トモロヲは、炊飯ジャーにウ●コを放ち、
B'zはサビ前で必ず、特効(花火)を打った。


最後のは関係ないが、
ロックにおいて、歓喜は狂気に変換されるのだ。
これは、ドラッグやハッパによるトランスを
具現的に表現したもの(本当にキメていた結果)だが、
我々ロックフリークは、この行動やそこに至る感情の爆発を
「ロックの原動力」として、
謂わば自身のセンスや日常生活における感情の内燃機関として認識し、
この価値観を全肯定してしまうのである。
全肯定は、時間の経過や心酔の激化によって、
完全に感情として組み込まれてしまう。
それは我々の中で、さながら人類にとって既存の価値観であるかのように振舞い、
いよいよ社会生活に支障をきたすものとなってしまう。


狂気が、「狂ったキモチ」「正気でいられないキモチ」という
本来のレゾンデートルを取り戻し始める。
ロックフリークスだからこそ得られた感覚……歓喜の先の狂気は、
社会に順応しようとするうちに、ただの狂気に変換されてしまうのだ。
これは、非常に恐ろしい事で、歓喜というプロセスを踏まないそれは、
ただの凶行に繋がりかねない。


先に述べた、歓喜の先の狂気が、狂気の先の歓喜になってしまうという事だ。
ライヴでの高揚感を有り体として得られる狂気は、健全である。
ライヴハウスの最前列にいるようなヤツらは、
「ケガしてもOK。そういう空間だし、お互い様だし。
 そんな事よりライヴ楽しもうぜ」という歓喜の感覚で一杯だが、
狂気の先に歓喜を見出すヤツは、
「ムシャクシャする。街中でチャカぶっ放したい。
 そしたらメチャクチャ気持ちエ〜んやろな」という、
抑圧から暴発したいという気持ちで一杯だからだ。


だから、ロックフリークスだったハズのオレは、
今、必死で、SAPPUKEIを聞いているのである。
ロックトランスフォームド状態における
フラッシュバック現象

今までオレの中で意味を持たなかった言葉が、
今、オレの中でセラピストのように振舞っている。


地下鉄で電車を待っている時、
自制しなければ線路へフワリとなってしまいそうな、
そんなきわきわなオレの中で、
緩やかに狂気の沙汰へと向かいそうな危ない気持ちを、
歓喜が狂気を伴いながらも満たし、
そして社会生活不適合と社会生活適合希望の間を行き来し、
何となく、生の実感を持たせている。
オレは「歓喜の先の狂気」を忘れたいと思っていたが、
どうやらそれは、オレ自身の崩壊を招くようだ。


クソったれのヤツらを、チャカで消したいとか、
クソったれの人生を、チャラにしたいとか、
そういうのはクソな事だし、「逃げ」だ。
満足できる生活なんて送れない。
ならば、満足できる生き方を考え、自らを律するしかない。


ノーサティスファクションか。上手い事を言う。
でも、オレは暫くペイントイットブラックな気持ちを
引きずるだろうよ。